父は、父の母(私にとっては祖母)が大好きでした。
11月14日に、入院まなしに父から来たメッセージには、「みんなで将来天国行ったら、おばあちゃんを中心に暮らそう。元気だし楽観的だし楽しいよ」と。
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95歳で亡くなる直前まで、廊下をパタパタ走り、1人で裏山にたけのこを掘りに行き、早口でケラケラよく笑い、強くて、太陽のような人でした。
今朝、妹の本棚に、茨木のり子さんの詩集を発見して、ぱらぱらと。
読むたびに、彼女のことを思い出す詩を見つけました。
祖母のことを思い出す詩「わたしが一番きれいだったとき」
わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから 青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで 手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように ね
戦火に追われた30代を生きた祖母のこと
祖母は、1912年生まれ。
女学校を卒業し、第二次世界大戦が勃発するまで、東京の丸ビルでイギリスの会社で社長秘書をしていました。
通訳をしたり、タイプライターで文書を作ったりしてました。
東京大空襲で、家を焼かれ、2歳の父をおぶって、東京の蒲田から神奈川の秦野の祖父の実家まで歩いたそうです。
「私が若い頃は、ずっと戦争だったから」と、さらりと笑顔で話してくれました。
2歳の時に第一次世界大戦、25歳の時に日中戦争がはじまり、33歳の時に終戦。
横浜生まれ横浜育ちで、大手町でハイヒールで仕事をしていた祖母にとって、突然の田舎暮らしは、苦労も多かったはず。
田舎とはいえ、農家ではなかったので、食べ物もなく、まさに貧困生活をよぎなくされました。
(食べ物だけでなく、命からがら身一つで東京から逃げてきたため、当然、金もなかった)
そのせいで、父は、切り干し大根やひじきは、「幼い頃の貧困を思い出すから、絶対に食べたくない」と、一切口にしませんでした。
そんな中、祖母は、誰も知る人がいない新しい環境で、一念発起して、近所の主婦たちを集め、「梅の実会」という会を結成しました。
「これからの時代には、英語が必要よ」と、英語を教えたりしてたそうです。
(その時祖母が作った、手書きで、「オートマチック:自動的、機械的」などと書かれたテキストを見せてもらいました。)
「信じられないわよねー。おばあちゃん、もう英語なんて全部忘れちゃったけど!あははは」と、楽し気に笑ってた祖母。
ほがらかでもあったけれど、ものすごく勝気で、親戚のおばちゃんとホウキ持って喧嘩した、というエピソードもあり。
祖母のように、30代を戦争、戦後の激しい貧困生活で過ごさざるを得なかったとして、私は、彼女のように、すべてを受け入れ、常に前向きで、愚痴なく、笑って生きられるのだろうか・・・?
と思うと同時に、心から、私は恵まれた時代と環境のもとで暮らしていることに感謝します。
また、次世代にも、平和の大事さを伝えていかなきゃ、とも強く思い、平和教育に注力された「モンテッソーリ」を学んでみようと。
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