日本に帰国中 膵臓癌で亡くなった父の最期を見て、「いかに生きるか」「死ぬか」を考えた

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日本に帰国中 膵臓癌で亡くなった父:「いかに生きるか」「死ぬか」を実感した

今まで、「”いかに生きるか”は、”いかに死ぬか”」という文字は目にしたことはあったけれど、実感はもてずにいました。

昔、同居していた祖父は、驚くほど元気で、87歳の時に1人で床屋に行く途中に心臓発作で倒れ、救急車で運ばれ、最期に間に合うこともなく。

なので、生きるとか死ぬとか考える間もなく、元気だった人が突然事故で亡くなったような感じでした。

全望みを賭けてきた治療ができなくなったら、どうするか?


11月14日に、入院まなしに父から来たメッセージには、「みんなで将来天国行ったら、おばあちゃんを中心に暮らそう。元気だし楽観的だし楽しいよ」と、書いてありました。

「あーさすがにすい臓癌再発して、近々死ぬということをイメージし始めたのか」と、ちょっと安堵しました。

んが、実際、日本に帰国して、父の様子をみていると、そうでもなかった。

11月8日に入院した時には、「体力的に抗がん剤はできないけれど、効き目があるかは不明だけれど、放射線なら可能。」と医者に言われ、一縷の望みをかけ、放射線治療を喜んで受けてました

それも、12月25日には、「全く効果が見られず、これ以上は継続できない」との宣告が。

この宣告は、父にとって大打撃だったはず。

ポチは、「パパ、ショックで自殺したりしないかな?」
母は、「自殺は、しないわね。そういうタイプじゃないから。」

私は、自殺はしないまでも、ふてくされたり、自暴自棄になって点滴を抜くとかするんじゃないか、と読んでました。

が、そっこう立ち直った父は、家族に相談もしないで、年明けに退院することを決め、点滴を支えるポールを勝手にレンタルの手配を、翌日にしてました。

ある意味、やけっぱちだったのかもしれないですが、とにもかくにも、前を向いて進むことで、自分を奮い立たせていたんでしょう。

延命治療を目の当たりにして「生き方」「死に方」を考えさせられた


父が、絶対回復することはあり得ない状況になり、日に日に、できることが少なくなっていく。

家でも外でも、自分のことはなんでも自分でやってきた父。

(自分のこと以外、でもか。
そういや、私の日本の銀行口座を託して、海外送金の手続きもやってもらってました。
「任せて!ボクは事務処理能力が高いから、やってみるよ!」と。)

そんな父が、11月から、ほとんど食べることができなくなっていたので、栄養剤の点滴のみで生命を支えている状態になりました。

腸液も、ドレインチューブで体外に出しています。
(この液がくせもので、出ないと高熱だしたりして大騒ぎに)

そんな父を見ていると、「この先、この状況で、延命治療を、いつまで続けていくのか?」という不安の声が湧き出てくる。

父は父で、訪問医の先生に、「どうやって死ぬのか、全然イメージができないんです。
どうなるんでしょうね。痛みが出るのか?高熱が出て肺炎になるのか?」と聞いてる感じで。

今は、少なくとも、起きているときは、頭はしっかりしているけれど、この先、いつ意識が混濁してわけがわからなくなるかもしれない。

そうなったら、点滴はどうするのか?
こっそり夜中に引き抜くか?

外を出歩いたり、人と会ったりするのが大好きだった父が、今は、何もできず、誰にも会えず、ベッドで眉間に皺を寄せて転がってるけど、これは、彼にとってどうなんだろうか?

最大のイベントであるトイレも、ベッドで尿瓶でしたりできてるうちはいいけれど、トイレで車いすから立ち上がれるのも、もうわずか。

その後は、おむつになるだろう。

(「歳をとると、赤ちゃんに戻っていく」とは言うけれど、頭がここまでしっかりしていると、とてもじゃないけど、そうね~、こんにちは、赤ちゃん、とかいう感じでは全くない)

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でも、点滴によって、生かされてしまったらどうするのか。

亡くなる前日にお見舞いに行った際、看護師さんから、「本人の希望で、歯を磨いて、髭を剃ったんですよ」と聞きました。

死を覚悟したのか、そうではなく、ただおしゃれでい続けたかったのか、本人に聞くことができなかったのは、心残りですが、なんとなく、後者だった気がする。

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