アメリカ生活 冬休み5日目自分の服装に亡き叔母を思い出した~生きづらさって

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アメリカ生活 冬休み5日目 全身赤い服を着てる自分を見て、亡き叔母に想いをはせた

達成感を感じた昨日、「明日の達成感は、ブログの表示直すのと、スキーパンツのサイズを決めてネットで注文する、書斎の片づけをすることで感じたいところ。」と書きました。

このうちの2つめ、「スキーパンツのサイズを決めてネットで注文する」を遂行しました!イエイ!

今日は快晴だったにも関わらず、文字通り1歩も外に出なかったんですが、ふと気づくと、裏起毛の赤色のパンツ、赤のTタートルネックの上にえんじ色のフリースを着てました。

真っ赤っか。

この服装を見て、母の妹で、2016年2月に亡くなった叔母、たーこばちゃんのことを思い出しました。

たしか1950年生まれなので、そうか、66歳で病死しちゃったんですね。若かったんですね。

叔母の消息が分からないのは、わたしが大学生のときに祖父が亡くなり、遺産相続でもめて、母と断絶してしまったから。

風変りだった亡き叔母のことを考えてみる

たーこばちゃんは、赤が大好きでした。

わたしが1人で家にいたときに、祖父の様子を見に来たことがあるんですが、赤いパンツに赤いセーター、スニーカーも靴下も赤。

当時わたしはモノトーンしか着てなかったこともあるかもですが、彼女の服装に呆然。

「ど、ど、どうしちゃったの、その装いは!」と聞くと、

「は?何?」

「全身真っ赤っかだけど、大丈夫?」

「あー?!そうだね、たしかに!全然気づかなかった。適当にその辺にあった好きな服を着てきたら!」

と、2人で大笑い。(やっぱりたーこばちゃんは変わってる!)

そんな叔母は、東京の桐朋女子音楽高校を卒業し、声楽家を目指してウィーンに留学しました。(1ドル360円の時代。信じられん!)

で、6年位ウィーンやドイツにいて、最終的には声をつぶしてしまい、日本に帰国しました。

その後、個人でピアノの先生をしていました。

変わってると言えば、妹と叔母が行った香港旅行の話しも思い出されます。

わたしは昔くじ運がとってもよくて、近所のデパートのくじびきで特賞「香港5日間の旅」を当てたことがあります。

日程が、まさに大学受験日と重なっていて、泣く泣く、叔母に譲り、叔母と妹が2人で香港に行きました。

妹から聞いたんですが、香港の市場で、最初、叔母ちゃんが言葉が通じなくて苦戦してて。

途中ではっと気づいたのが、「英語で話さなきゃいけないはずなのに、うっかりドイツ語を話してた!笑」
その後、英語で話したら、ばっちり値段交渉も成功!とほくほくしてたそう。

彼女達が香港から帰ってきてそんな話をしてる中で知ったんですが、叔母はオペラ歌手とか声楽家を目指していたので、高校からイタリア語は必須でした。

なぜイタリアに留学しなかったのかは分かりませんが、ウィーンとドイツに留学してたので、オランダ語とドイツ語が話せて、英語は、これもよく分かんないけど、なんとなく話せると。

叔母は生きずらさを感じてたかもしれないなあ

 

アメリカ生活 冬休み5日目 全身赤い服を着てる自分を見て、亡き叔母に想いをはせた

たーこばちゃんは、福島の実家に帰省したときにも穴の開いたジーパンや手作りの派手な服を着てて、「ほんとにどうしょうもない!あなたからも注意してくれないか」と、祖母が母に嘆いてたのを覚えてます。

今思うと、叔母は日本でも、生きづらさを感じていたんじゃないかなあ。

高校卒業と同時にヨーロッパに留学して、多感な時期を過ごし、当時たぶん音楽留学してたアジア人なんてほとんどいなかったみたいだから、いろんな意味でたくさんたくさん苦労したはず。

音楽業界に限らないんでしょうけど、高校時代からずっと、周りは全員競争相手、敵、出し抜くか出し抜かれるか、という感じだったみたいで、友達なんて一切いなかったそう。

で、喉を痛めてしまい、挫折感を抱えて日本に帰ってきても、理解し合える人はそういなかっただろう。

わたしは幼い子どもながらに、叔母の服装や言動を見聞きして、「叔母ちゃんは変わってる」と感じてたくらいだから、大人はもっとそう感じてたはず。

今叔母が生きていたら、いろいろ共有できることがあるのになー。

2人で真っ赤っかに決めて外に繰り出すのも、楽しそうだ。

赤好きな父も交えて、天国で繰り出すか。

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