父の短歌仲間である書家の川上さんから、お手紙と色紙が届きました。
闘病中にも、激励のお手紙と、「祈」という文字をいただき、壁に貼ってました。
今回届いた色紙には、「為さざる罪」とある。
「ん?なんだろう、これは?」ポチと2人で首をひねる。
その後、同封されていた手紙を拝読し、この言葉は、「お父様の人生訓のような座右の銘」だったことを知りました。
父の目指した姿は、レオナルド・ダビンチ!
父の座右の銘と聞いて思い出したのが、10年前、まだ父が現役でもりもりもりもり働いていたころ、「なんでそんなに働けるの?パパの仕事へのモチベーションは何?」とメッセンジャーで聞いたこと。
その返信に、「初めて考えてみたんだけど。レオナルド・ダビンチになりたいんだ。
ここだけの話、社会のためとか、誰かの役に立ちたいというよりは、全知全能になりたいという欲求によって、働いてる」と書かれていて、むむー、それは面白い考えだ、と。
私は、自分のために何かをするというより、自分がやっていることが社会のため、とか、次世代のために、ということがモチベーションになるし、ある意味、みんなそうかと思っていたから。
なので、(言わなかったけど)若干、「社会のためとかどうでもいい」というニュアンスに、(嫌悪感よりの)違和感を抱きました。
んが、この話を、私が当時一緒に仕事をしていた同僚何人かにしたところ、「へー、そうなんだ。豆子さんも、そういうタイプだよね。全知全能を目指すタイプ。似てるよ。」と。
「えーーーーーーーーー。全然違うのに、そういう風に見えるんだ!」と、本気で腰を抜かした思い出もあり、一連の流れ的に、父の”ダビンチ”発言は、強く印象に残っています。
今回届いた、短歌のお仲間とか、70歳近い仕事仲間から「Kenさんとの出会いは人生の宝物です」「社会人になって一番助けてもらった方です」などと、の真心こもったメッセージを読み、本人がダビンチを目指そうが何だろうが、結果的に、人のためになっていたことが多々あったことに気づきました。
当時感じた嫌悪感に近い違和感は、解消されました。
「為さざるの罪」を最期まで貫こうとしたのかな
2月2日、相当父の身体が弱ってきていることに気づいていたころのことが思い出されます。
血圧が上が80台で、車いすにうつると目まいがしてしまい、うつった後3分は頭をベッドにつっぷしてじっとしていないといけない状態になりました。
そんな中、「歯磨きに(洗面所に)行きたいけど、車いすに座れないかも・・。」と。
「じゃ、歯ブラシをベッドに持ってくるよ」と言うと、「そんなことしたら、ダメになるから、やめて!」と想定外の返事。
で、結局薬局、時間をかけて洗面所で、歯磨きと髭剃り一式ビューティータイムを実施しました。
さらに、この日に記したメモによると、「新聞タイムで、トランプ大統領、イギリスのEU脱退、韓国情勢について、父と一議論をし、楽し&尊敬」と書いてあるから、体力はもう底辺だったけれど、頭というか気力はまだまだあったのだった。
なぜ、「為せば成る」じゃなくて、「為さざる罪」にしたのか?考えてみる
全知全能を目指すのであれば、「為せば成る」でも良さそうなものを、なぜ、「為さざる罪」としていたのか?
それは、彼の過去の経験からきたのではないかな、と思ったり。
父は若い頃、報道記者をしていました。
ヘリコプターに乗って取材中にカメラを空から落として始末書を書いたり、人質を取って籠っていた現場を取材中にうっかり人質になってしまったり。
と、様々な修羅場を潜り抜けてきましたが、その間、おそらく何度も、「為しても成らない」経験をしてきたはず。
なので、成さなくてもいいから、とにかく”為す”ことが大事だ、と考えたのではないか。
(生前にこの座右の銘を知ってれば、その心を聞けたのに、残念!)
昨日届いた、短歌仲間の手紙には、「毎月発行している短歌誌に掲載された10首、詠んであげて下さい。歌は本音が出ます。奥深く読みとれますよ。」と書かれています。
とにかく為すことが大事かも、なので、来週実家に戻ったら、読み始めます。
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