日本に帰国中 母と過ごしながら違和感を覚える理由を考えてみた

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日本に帰国中 母と過ごしながら違和感を覚える理由を考えてみた

父が膵臓癌を再発し、なるべく早く帰国して欲しいと連絡を受け、日本に帰国したのが12月12日。
それから今まで、基本的には両親の住処で過ごしています。
(たまに、葉山の妹夫婦宅にお世話になっています)

人生において、父とこんなに長い時間を一緒に過ごしたことはなかったなあと、父の生き様について振り返ってみてました。

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と、特に幼少期には、父とよりは一緒の時間を過ごした母との生活は、違和感を覚えることが山盛りです。
なんで、こんなに相性が合わないのか?考えてみました。

”言葉では寄り添い、感情は距離を置く”って、難しい・・・


まず、自分がどうやっても変えることができないことに対して、”もし~、だったら良かったのに”という発言をよくすること。
さらに、他人を憐れむのが好きなこと。

例えば、「もし私が双子じゃなかったら、もっと友達も作ったりできて、いい人生だったわ」、「もし(福島じゃなくて)仙台で生まれていたら、もっと地元に愛着が持てて、楽しく過ごせたわ」

こういう発言は、自分のことだけではなく、他人の人生についても同様です。

「もし東京大空襲がなければ、おばあちゃんは都会で楽しく人生を過ごせたわよね」、「もしおばあちゃんが、前に付き合っていた方と結婚していたら、苦労しなかったのに」

すべて、ないものねだりだったり、人の人生が”可哀そう”という発想。

大半は、「そうだったかもねー」と聞き流していますが、さすがに聞き流せないときには、ちょっと意見を言ってみます。

例えば、「でも、もし仙台で生まれてたら、大空襲に会って、ママは幼子だったから亡くなっていた可能性もあるし、戦災孤児になってしまった可能性もあるよね。
良かったよね、そうならなくて。」

東京大空襲の中、祖母は父を背負って蒲田から神奈川県の二宮まで歩いて疎開できたのは、本当にラッキーなことだったとしか思えません。

そして、疎開した田舎で、できる範囲だとしても、自分ができることを見つけて笑顔で前向きに生き抜いた祖母の人生を”憐れむ”なんて、ちょっと許せないな。

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あとは、自分が恵まれているということを、一切認めないことです。

父は、子供時代、田舎で貧しい家で育ちました。
その貧困生活の象徴が、”切り干し大根”や”芋”や”ひじき”だった、と言い、頑なににこうした物に手をつけませんでした。

そんな父を笑い、「美味しいじゃない~。私は生まれてから一度も食べ物には苦労したことがないのよね~。昔から、切り干し大根は大好き。牛肉とか鰻とか出されても嫌いだから食べなかったわ~。」

と言いつつ、自分の育った環境が、どれほど恵まれていたかについては、全く感謝していないし、感謝どころか、恵まれていたと思ってもいない様子。

「ママも苦労したのよ!おじいちゃんが麦ごはんが嫌いだったから、白米しかなくて。
小学生の頃(昭和20年代。まさに終戦後)、お弁当に白米を持っていく子なんていなかったから、恥ずかしくて。そういう経験、あなたたちには分からないわよねー」と、真剣なまなざしで、自分がいかに苦労したかを伝えようとする母。

むむー、確かに私は幼稚園も小学校も給食だったし、同じ経験はし得なかったけど、もし本当に恥ずかしかったのであれば、麦ごはんにしてもらうように頼むことだってできたのでは?と思ってしまう。

さらに、終戦後、お弁当を持って来られなかった生徒も結構いたのではないか、と想像してしまいます。
もっと言うと、孤児になってしまったり、家の手伝いをせざるを得なくて、小学校に通えなかった子供もいたのではなかろうか、と、思ってしまいます。

母のは、鈍感力というのとも違う、ある意味、傲慢というのでしょうか。(なんなのでしょうか)

外出を控えている今日このごろ、母と距離を保って、心静かに生活するコツを身に着けたい。ぶつぶつ。
どなたか、いい案があればぜひ教えてください!

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