父の部屋で、短歌集を漁っていたときに、変色した冊子を見つけました。
JR東日本の車内誌「トランヴェール」に掲載された記事がまとめられていて、「ちょっと気になる駅」というコーナーに掲載された父の記事が載っています。
1993年12月号に掲載された記事で、当時父50歳。
(そうかーこの時って、そんな若さだったのか・・。)
今回読み返した文章の中で、父っぽいなあと感じた箇所は、太字の部分↓
この傷だらけの旅の間、ずっと思い続けたことがある。今回の場合は自業自得のにわか障害で、喜劇でしかなかったが、もし自分が年を取ったり本当に障害を抱えて旅をしたら、それがいかに大変かということである。私が出会った人々は皆本当に親切で、これ以上の親切を日常他人から望むべきではない。日本はまだまだ思いやりの「ソフト」に包まれているというのが実感である。
なんというか、親切を感謝するだけでなく、自力で何とかしなくてはならない、という部分が。
これもまた、父の座右の銘「為さざる罪」に繋がるよなー、と。
関連記事:日本に帰国中 膵臓癌で亡くなった父:彼の座右の銘「為さざる罪」を考えてみる
父50歳の時に書いた旅のエッセイ
以下に、全文を載せてみます。
「ハード・ラックな旅」
函館でゴルフをする機会があった。
北海道は青年時代にはよく旅をしたが、今では思い出はいずれも墨絵の風景のように煙っている。
特にそのなかでもはっきり思い出せなくていつもいらだつ場面がある。
昭和30年代後半のこと。海に沿ったプラットホームで、駅弁売りが1匹100円の毛ガニを売りに来てそれを買い、鈍行の汽車が海のそばを走る間、わき目もふらずに食った。
そのカニのミソの味だけは今でもはっきり思い浮かぶのだが、肝心の「カニの駅」が長万部だか白老だったかが、いくら思い出そうとしてもはっきりしないのである。
今回は久々の北海道なので、2日目から妻も誘って、函館~長万部~ニセコ~小樽と車で巡ることにした。
昔、汽車で走った道を、今度は線路と駅を見ながら自分の昔を見るように走ってみようという思いなのだが、墨絵のなかの「カニの駅」を確かめたいという気持ちも強かった。
さて、まずはゴルフを楽しもうとコースに臨んだのだが、「ブチッ」と音がして右足が肉離れを起こしたのは午前9時ごろ、まだ6ホール目の土手下。
すぐにキャディーさんが、整備用の小型トラックを呼びに走り、フロントマンは午前中にもかかわらず熱い風呂を沸かし、整骨師は「自分もよく野球で肉離れする」と慰め、と、多くの人の新設が私を取り囲んでくれた。
しかし、肝心の私は歩けずケンケンで電話機にしがみついて、午後の飛行機に乗ろうとしている妻に「保険証と免許証を持ってきて」とすがる羽目になった。
函館は小さなカットグラスのような町。
海からせり上がる斜面にカトリック、英国国教、それにギリシャ正教の教会が尖塔を並べ、その後ろにどっしりと函館山が構えている。
当初の計画では、港と坂道をゆったりと散歩して開国当時のモダンな雰囲気にひたり、洒落たカフェで夜を待ってロープウエーに乗るはずだった。
観光名所をタクシーで巡るというようなことは考えてもいなかった。
しかし、歩けない身となっては仕方がない。
たまたま来てくれたのが写真好きの親切な運転手さん(ちなみに函館は長崎、横浜と並んで日本人の写真熱発祥の地)。
彼は行く先々で妻と私の記念写真を撮らないとサービス心が満たされないお方で、歩けない私には傘を持たせ、それを杖に無理にも銅像や教会の前に立たせようとなさる。
私も、彼および生まれて初めて津軽海峡を越えた妻の手前、「痛いから車で待っている」などとはとても言えない。
旧函館区公会堂の巨大なコロニアル建築では、手すりにしがみついて階段を上がり、下でカメラを構えて待つ運転手さんに向かって、2階のベランダから手を振るという英雄的行為?までしてしまった。
この冷や汗をぬぐいもせずに函館山の頂上で、今は連絡船も来なくなった駅の灯を探して妻に思い出を語り、漁火を見ながら津軽海峡の風に当たったせいか、ホテルに戻ると、私は38度の発熱をしていた。
さらに翌朝には眼精疲労症に陥り、片頭痛のうえ目もはっきり見えないという事態となった。
これで私は、発熱し、目と足の不自由な身で、旅を続けることになってしまったわけだ。
その日はいよいよ長万部を通り、今でもホームでカニを売っているか、今はカニはいくらかなどと確かめるはずだったのだが、これでは駅の階段を上ってみるのは無理。
妻に頼んで車を駅前に入れてみたが、ホームから海が見えるかどうか、ホームの大きさはどうかなどは結局解明されず、「カニの駅」はあいかわらず墨絵のなかでぼんやりしたままになってしまった。
この傷だらけの旅の間、ずっと思い続けたことがある。
今回の場合は自業自得のにわか障害で、喜劇でしかなかったが、もし自分が年を取ったり本当に障害を抱えて旅をしたら、それがいかに大変かということである。私が出会った人々は皆本当に親切で、これ以上の親切を日常他人から望むべきではない。
日本はまだまだ思いやりの「ソフト」に包まれているというのが実感である。
しかし風呂場に手すりがあったら、タクシーに車椅子が積まれていたら、公衆電話機がもう少し低かったら、そして駅や空港の階段に車椅子で上がれる工夫があったら、何気ない2~3段の階段がいかに行く手を阻むものか、などと考えを巡らせてみれば、「ハード」の工夫の余地はいくらでもありそうに思われた。
それは新たな投資や雇用の創出にもつながるほどかもしれない。
今は「規制緩和」が流行語だが、「規制」によって画一的な最低限の保証が行われているのが日本の社会である。それも決して悪い社会ではないと思うが、これからはそれぞれが工夫を凝らしてその最低限保証に何かを上積みしていく時代にしたいものである。
関連記事:日本に帰国中 膵臓癌で亡くなった父:彼の座右の銘「為さざる罪」を考えてみる